馬屋久保遺跡を歩く 1. 2. 3. 4. 5. 6.
馬屋久保遺跡の地図 

左の写真は不思議な空間から、唯一、北東方面へ向かっている道です。写真の左側に比較的に広い空間が見られます。さて、この写真の道が将軍道の続きでよいのでしょうか。それを尋ねられる人は、ここには誰ひとりといません。この辺りは不思議な空間ではありますが、古道が存在した形跡はあまり感じられないのでした。その古道が存在した形跡とはどのようなものをいうのかともうしますと、例えば道が通っていたことを示す、自然地形とは違う細長い空間があることなどが挙げられます。平坦地とは違い、ここのような山中の地形なら、路面を造れる空間とか、その空間を構成できる壁などが存在することなのです。

上の写真の道を暫く進むと、今度は道が三方に分かれているところに出ました。その三方に分かれている真ん中の道を進んでみることにしました。右の写真は、三方の真ん中の道を暫く進んで、振り向いて撮影したものです。この写真の道の景観には古道の雰囲気は全くありません。この道でよいのか不安になってきました。ただ、那須郡家を目指す北東方向への道は、この道しか付近には見られません。この辺りは古から地形の改変が著しかったとも思われ、そのために、古道跡は完全に破壊されてしまっているのかも知れません。

そしてこの道は進むにつれて雑草がだんだん増えていくようです。やがて雑草は私の腰の高さまで伸びているところを歩いていました。この道は現在では、道として利用されていないのではないかと思われます。これはもう廃道といってもよいくらいの荒れようです。これでは人がいなくて当然、何もなくて当然です。このような道が果たして将軍道の続なのかと自問自答しながら藪こぎで進んで行きます。ここまできたらもう引き返えれません。もう少し現張ればこの藪状の坂の上には十字路があるはずです。そこまではとりあえず行ってみようと思いました。

「おや、あそこは峠状のところのようだな。そこまでは、もう100メートルはないだろう。頑張れ。」自分で自分を励ましているのでした。そしてとうとう右の写真の峠状で切通のようなところへ辿りついたのです。そしてここは、霧が晴れたように、古道の臭いが感じられるところだったのです。切通状の左側(西側)は塚とも土塁とも思えるような地面の隆起が見られます。この切通状のところを過ぎると、そこに十字路がありました。右側(東側)から合流してきている道は未舗装ですが車も通れるようです。その右から合流してきた道がこの十字路で北へ折れて進んでいて、ここから先は、まともに歩ける道であったのです。

左の写真は切通状のところを振り向いて撮影したものです。おそらくここは尾根を古い土木技術により切通していると思われます。ここを通る細道は将軍道の続きでよかったのかも知れません。ただ、尋ねる人がいないので、この細道が将軍道で間違いないのか確かめることはできませんでした。この峠状のところを越えれば、後は丘陵の下り坂です。八方口から上川井までの4つのすべての丘陵を越えたことになります。今回、このホームページで紹介した馬屋久保遺跡を、八方口から上川井とさせていただいたのは、上川井に「新道平遺跡」というところがあり、そこで東山道跡と推定される道路遺構が検出されていたからです。

八方口から上川井の新道平遺跡までは、ほぼ直線で、この区間は古道が存在したと考えて間違いないと思われるます。新道平遺跡は那須烏山市上川井の国道293号線沿いにあります。国道が低地部で江川という川を渡る付近のさくら市側には「森後(もりうら)遺跡があり、その遺跡を過ぎて北東へ丘陵を上る途中に新道平遺跡があります。

新道平遺跡では並列する2つの道路遺構が見つかっています。北西側の道路遺構は両側に側溝を持っていて、側溝間の距離は7メートルで、ロームを僅かに削り取り、その上にロームと黒色土を混ぜた土で路面としていたとあります。遺構には路面改修の痕跡は認められなかったそうです。

一方、南東側の道路遺構は側溝がある道路遺構から約3メートルほど離れているところで発見されていて、ロームから小川スコリアまで削り取り、その上に小川スコリア、ローム、黒色土を混合して固めた路面が幅約7メートルで確認されていたそうです。側溝はなく、この遺構でも路面改修は認められなかったといいます。この2つの道路遺構の前後関係は不明であるようです。新道平遺跡の道路遺構は馬屋久保遺跡と共通していることから東山道駅路と推定されています。

上の写真と左の写真は切通状のところから北へ丘陵を下りていく道ですが、古道を感じられる景観は残念ながらほとんど見られません。一般の林道のような道です。

右の写真は、そろそろ低地部へ近づいている付近のもので、道は切通になっていますが、切通の古さが感じられません。この道を将軍道の続きと考えることはできるのでようか。

新道平遺跡では並列する2つの道路遺構が検出されたことと、いずれも改修の跡が認められないことから、この2つは使用時期の異なる道と考えるのが妥当と思われます。想定される東山道は新道平遺跡から現在の国道293号線の南東側を国道と並列するように北東へ進み、那珂川町の片平熊野神社南側付近へ出ていたものと考えられているようです。東山道は那珂川町の「上の台」を目標に進んで行き、そこから真北方向へ進路を転換し白河の関を目指したものと想定されているのです。

発掘中の森後遺跡
那珂川町の上の台は、この地方の古代の中心的なところであったようです。付近には延喜式内社の三和神社や、駒形大塚古墳などがあります。また、漆に関連した遺物が出土している「上宿遺跡」や、大型工房跡が確認されている「上の台遺跡」等が上の台にはあります。そして上の台から北西約3キロ付近に「那須官衙遺跡」があるのです。
左の写真は、さくら市鹿子畑の江川の左岸で、発掘中の「森後遺跡」です。古墳時代から近世に至るまでの遺跡ですが、メインは奈良・平安時代の集落跡で、堀立柱塀の区画内に竪穴住居跡、堀立柱建物跡、井戸跡などが検出されています。遺物としては平安時代の土師器杯に「路」と墨書されたものが見つかっていて、遺跡の南側に推定される東山道(写真後方の丘陵を東山道が越えています。)との関連が注目されています。

八方口から上川井までの馬屋久保遺跡を歩いてみましたが、とにかく開発を受けていないので昔のままの古道跡の細道が延々と残っているのには感激しました。かっての多摩丘陵や埼玉県の南部、そして横浜を通る古道にも、このような風景があったのだと想像が膨らみました。開発を受けていないので、発掘調査等では道路遺構はよく検出されています。これからも東山道の調査により新たな発見が期待されます。平成18年10月に栃木県立なす風土記の丘資料館で企画展東山道のシンポジウムが行われ、最新の情報として新道平遺跡で新たな発掘が行われているもようです。

栃木県の東山道ルート
栃木県では馬屋久保遺跡の発掘後に、東山道と推定される古代道路遺構が次々と検出され、現在では、県内を通る東山道の推定ルートはおおむね把握されています。なかでも宇都宮市の東谷・中島、上三川町磯岡等の地区では、「西刑部西原遺跡」「権現山遺跡」「磯岡北遺跡」「杉村遺跡」とを結んで、総延長約1.5キロにわたる道路遺構が検出されていて、おおむね3時期の改修を受け、8世紀中葉から9世紀後葉以降まで機能していたことが確認されています。道路の幅は1・2時期のものが約9〜13メートルで、3時期になると6メートル前後と狭くなっているようです。この付近の道路は集落などには沿っていなく、目的地から目的地を直線的で結んでいて、琴平塚古墳郡内を通過のさいには、道路は墳丘を迂回していることが確認されています。

別の視点の東山道
馬屋久保遺跡を通る東山道は南西から北東へ郡境を直線で進み、那珂川町(旧小川町)の那須郡家を目指しています。このラインは白河の関へ向かうには、やや東に迂回しています。一方で、途中で少しふれた関街道がありますが、関街道のルートは那須郡家を経由せずに、最短で白河の関を目指していることから、研究者の中には関街道が本来の駅路で、那須郡家へ向かう道は伝路ではなかったかと考える説もあるようです。その後に駅路の付け替えにより那須郡家を経由するルートになったという見方もあるようです。

那須と古代道
那須という地域は栃木県の北端に位置していて、古代の始めには下野国とは別の独立した那須国があったのではないかと考えられてきています。確かに那須というところは、なだらかな喜連川丘陵を越えた先にあり、那珂川沿いに広がる盆地状になっているところで、那須の原と呼ばれ地理的には独自性を持ったところなのです。古代の史跡・遺跡が大変に多いところでもあります。多くの古墳に那須官衙遺跡、浄法寺廃寺などの古代寺院跡、そして「那須国造碑」は日本三古碑のひとつに挙げられています。更にこの地は陸奥への入口でもあり、蝦夷討伐の後方補給基地とも考えられているのです。古代の道がこの地を経由したのは必然なのかも知れません。ホームページ作者はこの地域の今後の遺跡調査に注目していきたいと思います。

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古代の道について  那須とその周辺の史跡を尋ねる
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