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将軍道で発掘された道路遺構は8世紀から10世紀頃までは機能していたことが確認されています。その後は律令制の衰退とともに道路は廃絶へと向かうものの、八幡太郎義家伝説が残ることから、その頃までは陸奥へ向かう幹線路として使われていたと思われるのです。そして鎌倉時代以後は幹線路は西へと変遷していったと考えられているのです。その西へ変遷した道が関街道とす見方もできるのかも知れませんが、『吾妻鏡』に見られる「奥大道」が関街道であるかを確認する資料がありませんので、ここでは奥大道と関街道は道筋が似ているとだけ書いておきます。
左の写真は将軍道が荒川の北側へ渡ったところのもので、道脇には稲荷神社が建っていました。 |
| この稲荷社は「八幡太郎稲荷」と呼ばれていて、神社建物の脇には改築記念の石碑があり、神社創建の由来が書かれていました。
天喜4年(1056)に朝廷の命を奉じ八幡太郎義家公は、陸奥の安部時頼及び貞任、宗任を征討の途中、塩谷・那須両郡の境界の将軍道を通過の際、暫し此処に大軍を屯した時、義家は手から一本の松を植え、その傍らに祠を設け稲荷の神霊を祭ったという。里人らはこれを崇信し、遠近より祈願者も多く、一本松稲荷と呼ばれ栄えていた。その後、幾度か変遷、禍乱も相次ぎ、伽藍は風雨にさらされ、近世には僅かに小祠が残るのみであった。神徳顕著にして衆生の渇仰をもって、有志、財貨を喜捨して一堂を新築し、稲荷の神霊を奉安して後世に伝える。 |
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神社建物の前に松が一本、倒れかかるように斜めに植えられています。この稲荷社の前には舗装道路が将軍道と交差して横切っています。その交差点には、ここが那須烏山市と、さくら市の境界である標識が立っています。左の写真は交差点から北へ延びる将軍道です。また、この辺りは小字将軍道というようです。この先には八方口から4つ目の丘陵越えがあるのでした。 |
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八幡太郎稲荷(中央の林)からの将軍道
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| 将軍道はこの先で、全く人気のない丘陵を越えて行きます。この将軍道を歩く人は、ほとんどいないものと思われます。ホームページ作者のような、よそ者がこのようなところを歩いていると、怪しいやつと思われそうです。怪しいやつと思われるのは私には慣れたことですが、しかし、これでは一般の古道散策者は歩きずらく、一層人が歩かなくなります。現代人が古道散策をあまりなされないのは、そんな理由があるのかも知れません。しかし、古道探索はこのようなところをよく通らなければ進まないことが多いのですから、遠慮無く歩いて行きましょう。自分は悪いことをしているのではないのですから。 | ![]() |
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それにしても、今の世の中はどうしてしまったのでしょうか。これだけ物に恵まれ、沢山の情報を簡単に得られるようになったというのに、豊かさがあまり感じられないのは何故なのでしょうか。便利な世になったにもかかわらず、将来の不安は増すばかりです。ホームページの作者である私が、小学生、中学生を過ごした時代には、遊び場というものは、本来家の外にあるものでした。今日のように物には恵まれていませんでしたが、あの頃には希望があったように思います。今の子ども達は、大人が商売のためにつくった物(或いは場所)でしか遊べないのでしょうか。大人の都合で振りまわされている、可哀想な子ども達。 |
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ちょっとした切通状の将軍道
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| 何もないということが、こんなにも気持ちを楽にしてくれるのか。この将軍道の周りには何もありません。いや、何もないといったら土地の人に叱られてしまいます。ここには緑や自然があります。私が子どもの頃に遊んだ林や森、そして未舗装の道がここにはあります。ホームページの作者は都会はあまり好きではありません。最先端の生活とか、賑やかで華やいだものとかが、どうも苦手なのです。落ち着きと、安らぎを求めるなら、やはり田舎がよいと思っています。しかし、最近は田舎と都会との差が感じられなくなってきています…。関係ない話になってしまいました。もとに戻りましょう。この先の将軍道には確かに何もないのです。 | ![]() |
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南に張り出した尾根の縁を進む将軍道
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この先も将軍道は市境を北東へ真っ直ぐ進んでいます。ただ、この付近の細道の景観はホームページの作者には古道の臭いが感じられないのでした。何故と聞かれても旨くは説明できないのですが、現在の道の周辺地形からは古道が見えない、ということしかいえません。ホームページの作者は実は古道研究は素人です。雰囲気だけでしか説明はできないのですから。どうか悪しからず。そのぶん、実際の研究者の資料を十二分に参考とさせていただいています。 |
| 将軍道はやがて、不思議な空間のところにたどり着きました。右の写真がその場所を撮影したものです。何が不思議なのか? この写真を見ただけでは疑問に思われるかも知れません。右の写真だけでは不思議さが撮れていませんので、言葉による補足が必要です。まず、将軍道は写真の右側から来ています。そしてこの場所は私が確認したところでは、6方向から道が合流しているところのようなのです。そしてここには山に囲まれているにも拘わらず、比較的に広い空間が存在しています。更にこの場所は、八方口からここまで、ほとんど直線で進んできた市の境界線が西へ折れて行くところなのでした。 | ![]() |
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古代の道について 那須とその周辺の史跡を尋ねる
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馬屋久保遺跡を歩く 馬屋久保遺跡の地図 |
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