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左の写真は堀割道が続いている丘陵上の将軍道で、この付近は那須烏山市の小白井という地名の場所です。平成18年(2006)3月にホームページの作者はここを尋ねていました。その時にこの写真の場所でトレンチによる発掘現場を拝見しています。発掘現場の写真は那須烏山市教育委員会に尋ねたところ、調査途中なのでホームページには載せないでもらいたいということでしたので、残念ながらここでは載せられませんが、発掘担当の方(月刊文化財に馬屋久保遺跡の調査報告を書かれている木下実先生)から聞いた内容を報告します。発掘現場の説明についてはテキストの色をかえています。 |
| 上の写真と右の写真は発掘がおこなわれていたその場所の写真ですが、3ヶ月後の6月に再訪してみると、ご覧のように埋め戻されていました。
発掘は堀割地形のところを2メートル位の幅で現在の道に対して真横(直角)に堀込んでいました。道の中央部ではトレンチ部の南側へT字形に縦(現在の道の方向)にも掘込んでいました。トレンチの横の長さはおおよそで10メートル位でしょうか、現在の細道の幅が約2メートルほどですから、道路遺構は今の細道からは想像もできないくらいに広いものであったようです。 |
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トレンチの一番深いところでは現在の地表面から1メートルぐらい掘込まれていました。地層断面の壁(セクション)には素人の私が見ても硬化層が幾層にも重なっているのが確認でしました。その中でも目を引いたのが、側溝と思われる船底のような窪んだところです。それが二つ離れて確認でき、双方で地層の上下差も確認できるのです。これはこの場所の道路遺構に側溝があり、少なくとも2度の改修を受けていることが想像されます。発掘を担当された方の話しによると、始めに約9メートル幅の作道があり、その後に幅約6メートルの道に造り替えられていたということでした。
左の写真は発掘現場から北へ200メートルほど進んだ辺りの堀割道を撮影したものです。 |
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典型的な古道の美しい堀割道
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| 更にトレンチの底部には不規則な穴がぼこぼこと見られます。こっれは他の遺跡の古道遺構の路面底に例を見る、ピット状小穴列、または波板状凹凸と呼ばれる穴のようです。馬屋久保遺跡のこれまでの調査報告には波板状凹凸の検出があったとは私自身は知りませんでしたが、この場所ではそれを見ることができたのです。この場所で検出された路面底の凹凸は2時期目の路面に見られると担当の方から聞いています。
小白井の将軍道はトレンチ発掘現場の北側に700メートルから800メートルぐらいの区間を丘陵上の道として通っています。この間の美しい堀割道は平坦地を通る古代駅路のような直線的なものではなく、地形に逆らわずに緩やかに蛇行しているようでした。 |
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トレンチ調査からは出土遺物は確認されていなく、作道の年代はわかっていないようです。那須烏山市教育委員会による東山道の調査では今回のトレンチ以外の場所で、改修された路面の盛土の中から9世紀代の土器を確認していることから、それ以前に造られていることがわかっています。今回の発掘で確認された道路遺構も同じ将軍道であることから、同時期のものと考えられるようです。
左の写真は幅の広い堀割地形です。この写真の付近でも道路遺構が埋まっているかも知れません。 |
| そろそろ美しい堀割道も終わりが近づいているようです。細道は丘陵を下りはじめています。ところで一般的に、古道跡と呼ばれる林の中の道は、薄暗く、一人で歩くには気味が悪いようなところが多いものです。那須烏山市小白井の堀割道は比較的に明るく感じられます。それはここの古道の周りの木が針葉樹ではなく広葉樹が多いせいでしょうか。冬場では天気が良ければ日差しを受けて歩くことができ、とても清々しい気分になれました。将軍道も整備され、知名度が上がれば散策される人も出てくることでしょう。現在の状況ではホームページ作者のような、もの好き変人以外は歩く人はいないでしょう。 | ![]() |
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突然、目の前に送電線の鉄塔が現れました。鉄塔の脇には左の写真のような大きな堀割状の長い窪地がありました。この窪地は写真のところでスッパリと無くなっているのです。無くなった先は、急な崖状になっていて下りることはできません。その先の低地部に下りるには、写真の堀割状のところの右手側に、人がひとりだけ、やっと通れるほどの階段状の道があり、そこから下ることになります。さて、この堀割状の窪地は果たして古道跡なのか、それとも古道とは関係のないものなのか? それを尋ねられる人は、やはりここにも誰もいませんでした。 |
| 鉄塔の脇から崖を下りると、そこには建物が建っています。この建物は人家ではなく、何かの施設の建物のようです。その建物の脇には丘陵部から下りてくる別の道が合流していますが、その道は今ではほとんど使用されていないようで廃道寸前の道です。その道を出たところの少し先の右手には、右の写真の神社があります。南那須町の資料によると、この神社は日枝神社というようですが、神社創建の由来や将軍道との関連などは確認することができませんでした。 | ![]() |
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真っ直ぐな将軍道はまだまだ続く
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八方口からここまでの将軍道は丘陵を3つ越えてきました。この先も将軍道はまだ続いています。八方口から上川井までは、この辺りで半分くらいになります。将軍道(東山道)は北東方向へ那須郡家を目指して進んでいます。一方、小白井から北西に分岐して白河の関を目指す別の古道があったとも聞きます。将軍道の境界にあたる旧喜連川町は、交通の要衝であったところです。近世の奥州街道も喜連川を通っています。左の写真は低地部を流れる荒川という川を渡った対岸から振り向いて撮影したものです。写真背景の丘陵は美しい堀割道があったところです。写真の中央に一本の道が見えますが、これが将軍道になるようです。 |
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左の写真は、荒川の流れの一部です。将軍道が荒川を渡るところには、現在、橋はありません。川の対岸へ渡るには、現在では橋があるところまで大きく迂回するしかありません。
先ほど、小白井から北西に分かれる別の古道があったといいましたが、その道は喜連川の鹿小畑、小郷野、大田原市の福原、鹿畑等を通り、大田原市の余瀬で那須郡家を経由した東山道と合流していたともいいます。その道は白河の関を目指していたので、「関街道」ともいわれていたようです。しかし、関街道と呼ばれる道は調べてみると幾筋かのルートがあるようで、また、将軍道そのものが関街道だとする資料も見られることから、今ひとつその道の実態が、はっきりしないのです。関街道は東山道の別ルートであるとか、また、人によっては近世以降の街道とする意見もあるようです。 |
| 結局のところ、関街道とはどのような古道であったのか、ホームページの作者が調べた資料には具体的に実態を把握できるものがありませんでした。それでも一説には、中世の奥州へ向かう幹線路とする見方があり、関街道の別称に「秀衡街道」というものもあります。奥州藤原氏3代目の藤原秀衡に因んだ街道ということのようです。実際に大田原市(旧湯津上村)の蛭田には秀衡街道跡という幅10メートル位の窪地が現在しています。伝承はあるもののその窪地が本物の古道跡であるのかどうかはわかりません。
右の写真は荒川の北岸上に上る坂から南側を撮影したものです。 |
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馬屋久保遺跡を歩く 馬屋久保遺跡の地図 |
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