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馬屋久保遺跡の地図 

舗装道へ出たところには左の写真のような東山道の説明版が立っています。説明版には奈良・平安時代頃の官道であったこと、それから氏家町(現在、さくら市)の柿木沢竹橋付近に新田駅(※1)があったことも説明されています。そして東山道は西と東の文化路として栄えましたが、武士の時代の鎌倉時代になると幹線路は別のルートに変わり、交通も減少したことなどが書かれています。

(※1)新田駅は現在では、ここから次の丘陵に上がったところの「長者ヶ平遺跡」が有力な候補地となっています。

左の写真は八溝グリーンライン(塩那広域農道)の舗装道路です。馬屋久保遺跡は栃木県内で最初に東山道跡として発掘された遺跡です。馬屋久保遺跡は現在の那須烏山市の鴻野山地内にあり、遺跡内を通る将軍道の厩久保、小白井、辺りまでを指すようです。将軍道は文久元年(1861)の上川井村絵図に描かれているそうです。この将軍道が東山道ではないかと指摘したのは金坂清則という研究者です。

昭和63年(1989)に栃木県教育委員会が発掘調査をした場所が右の写真の丘陵を上る坂の部分と写真の手前の低地部でした。
低地部の調査
盛り土をして4期にわたり路面の作道がおこなわれていた。作道当初(1期)は小礫に七本桜スコリアと今市スコリアの盛り土をして突き固めた路面としている。2期から4期とも1期同様の盛り土が確認されている。しかし、側溝の存在は不明である。
丘陵裾部の調査
黒色土に盛り土をして路面としている。2期の路面では幅約0.3メートルの両側側溝を備え、側溝の心々距離で約6.3メートルであった。盛り土は約0.6メートルで、ロームと小川スコリアを版築状に突き固めていた。

丘陵鞍部の調査
丘陵斜面を約40度の法面で深さ約1.5メートルほどオープンカットし、平坦なローム面を造りだし、そこにロームと小川スコリアの混合土を突き固め路面としている。谷川のみに側溝が造られている。道幅は1期で約4.7メートル、2期で約5メートル、3・4期は側溝がなくなり道幅は不明となる。年代は側溝の出土遺物から1期は8世紀代、2期は9世紀前半、3期は9世紀後半、4期は10世紀以降とされる。

以上南那須町の資料より引用。これらの調査から4時期の改修がある幅約6メートルの道路で、8世紀から10世紀まで使用されたことが確認されています。

上の写真は道路を丘陵裾部から振り向いて撮影したものです。前方の丘陵頂部には、先ほど説明した神社のある塚のようなところが確認できます。右の写真は丘陵に上る中間から振り向いて撮影したものです。この写真の辺りで発掘がおこなわれたものと思われます。現在ではご覧のとおりのアスファルトの路面にコンクリートの切通壁で、奈良・平安時代の古道が通っていたなどとは想像もつかない景観になってしまっているのです。

古代道路遺構は低地部では盛土工法をとり、丘陵状の斜面などではオープンカット工法になっているのが一般的です。ここの馬屋久保遺跡は、盛土工法と切土のオープンカット工法の両タイプが検出されている代表的な古代道路遺跡なのです。

舗装道路が東へカーブし始めた付近には、左の写真のような真っ直ぐに進む細道があります。将軍道はこの細道になります。しかし、この細道はかなり荒れていて、夏や秋では雑草がぼうぼうに茂っていました。一方で舗装道路をカーブしながら進むとやがて長者ヶ平遺跡の平坦地に出られます。

右の写真は舗装道路から分かれた細道を少し進んだ付近のものです。この写真の付近では、ホームページ作者が昨年(平成17年)10月に訪れたときには、けっこうな藪こぎをさせられた場所です。この写真は3月上旬に撮影したもので、この季節では藪こぎをさせられた雑草はご覧のとおりにほとんど枯れていました。将軍道は那須烏山市と、さくら市の境界を南西から北東へ真っ直ぐに進んで行きます。写真の金網フェンス側がさくら市です。将軍道は那須郡と塩谷郡の郡境でもあるのです。

上の写真から少し進んで振り向いて撮影したものが左の写真になります。この付近は傾斜の緩やかな坂道で幅広の皿底状の道になっています。現在のこの地形からは、かなり広い古道が通っていたことがうかがえます。馬屋久保遺跡では、平成15年度からは那須烏山市(旧南那須町)教育委員会による発掘調査が行われていて、実際にこの写真の辺りでも道路遺構が確認されているようです。

この付近では、表土から1メートル下で、大きく3回の路面改修があったことが確認されているといいます。法面(逆台形の形)を造って路面としていて、その幅はさくら市側の部分を含めると約10メートル以上あり、路面はロームと、砂利質の小川スコリア、及び黒色土を混ぜて硬く叩きしめていたと報告されています。

(※参考 月刊文化財No.499馬屋久保遺跡の調査 木下実)

林を抜けると視界は明るくなり、将軍道と交差する道が現れました。交差した道の先には、左の写真のように将軍道の細道は続いているのです。そしてこの交差する道は「タツ街道」と呼ばれていて、この道も将軍道と同じく、古代まで遡る古道であることが発掘調査で報告されているのです。この古道の交差点からタツ街道を東に400メートルほど行くと、そこは長者ヶ平遺跡です。長者ヶ平遺跡の調査ではこの道も発掘されていて、古代まで遡る路面が確認されているそうです。

右の写真は古代の道の交差点になります。写真を横に通る道がタツ街道で、将軍道は写真の右奥の暗い林の中から接続し、この交差点から北へ那須郡衙を目指しています。そして、この交差点でも那須烏山市側を発掘調査しています。側溝が確認されていて、2回の改修があったこともわかっているようです。最初の側溝は幅約1.6メートルで、深さは約10センチメートルであったとあり、それを埋め戻して、多少小さな側溝に造り替えていたそうです。側溝の覆土から9世紀代のものと考えられる土師器鉢形土器が出土していたと報告されています。

将軍道(東山道)の側溝は、タツ街道と交差する付近でなくなり、ロームを削平して路面を広げていたそうです。この発掘調査により東山道とタツ街道は同時期に使用されていたことがあったとされ、まさに古代の交差点なのです。また交差点では現在の道路の交差点のように広がっていたことも確認されています。
左の写真はタツ街道の細道で、長者ヶ平遺跡方面に向かう途中のものです。タツ街道は長者ヶ平遺跡の西側に面して通り、幅が9メートルもある立派な道であったのです。

長者ヶ平遺跡の近くを通るタツ街道

このタツ街道はここから南の芳賀郡衙推定地である堂法田(どうほうだ)遺跡(現在の真岡市松原)へ向っていて、古代の伝路にあたるのではないかと考えられています。ただ、将軍道と交差して、その先は何処へ向かっているのか、はっきりしていないようです。芳賀郡衙から東山道駅路までの間がタツ街道であるとみるのが妥当であると指摘されているようです。尚、タツ街道は「辰街道、又は立街道」とも書かれ、「下妻街道」の俗称であったとも伝えられています。右の写真は長者ヶ平遺跡南西部付近を通るタツ街道で、堀割状の道になっているところです。

長者ヶ平遺跡
左の写真は長者ヶ平遺跡にある説明版です。長者ヶ平遺跡は律令国家の官衙遺跡である可能性を研究者が指摘していますが、どのような性格の施設であったのかはいまだにはっきりしていませ。遺跡は平成13年度から発掘調査が行われていて、現在まっでに南北約320メートル、東西約350メートル以上で、4ブロックにまとめられることがわかっています。大地中央にはコの字型に大型の堀立柱建物群を配置した政庁を置いています。東西ブロックは総柱式堀立柱建物と礎石建物からなる正倉院があります。その東ブロックは実務的な施設があったと考えられ、西ブロックは倉庫群で、焼き米(炭化米)が多量に出土していることから、火災があったものと考えられています。更に丘陵が北に張り出した北ブロックにも竪穴住居や堀立柱建物が確認されています。

遺跡の官衙域(主として中央ブロック)では3期の変遷が確認されています。コの字型に建物が配置されたのは2期にあたり8世紀代です。3期では政庁の廃絶後で数棟の小型の堀立柱建物からなっていたようです。全体としては7世紀末から10世紀までが遺跡の機能した時期になるようです。

長者ヶ平遺跡は東山道駅路(将軍道)が直ぐ北を通っていることや、厩久保の地名が存在することから、下野国芳賀郡にあったとされる新田駅家ではないかと考えられていました。しかし、これまでの発掘調査結果から、政庁(郡丁院)と倉庫群(正倉院)を中心とした典型的な官衙配置であることなどから芳賀郡衙別院と考える説もでています。さらに芳賀郡衙別院と駅路の駅家を複合した施設とする見方もあるようです。長者ヶ平遺跡の実態を明かすのは、これからの調査にゆだねられています。

長者ヶ平の由来(長者伝説)
鴻野山長者ヶ平には昔、塩谷民部と称する長者が住んでいました。長者は一説に、駅長の俗称であったともいわれていたようです。長者は広大な土地を持ち、年貢米や畑作物が運ばれる御殿に住んでいて、大勢の人を使い贅沢な暮らしをしていたようです。後冷泉天皇の代に、安部頼時討伐のために都より陸奥へ下る源頼義、義家父子は下野国に入り、この長者の館に宿りました。長者は都から来た武将をこころよく迎えました。翌日、出発の時に義家は1000人分の食糧と雨具を用意するように長者に命じると、立ち所に提供したので義家は内心に恐れを感じていました。その後頼義、義家父子は安部氏を征伐し(前九年の役)、帰りに再びこの長者の館に寄りました。長者は前にも増して歓迎しましたが、義家は斯かる大福長者を残して置いては安部氏のように後のわずらいとなるかも知れぬと、翌日に出発したと見せかけて、その日の夜中に長者の御殿や倉庫に火を掛けたのです。長者屋敷は見る見るうちに炎に包まれ真っ赤に燃えあがり、一晩のうちに灰となってしまいました。長者とその家族と家来達はみな斬られたり焼け死んでしまいました。今も長者ヶ平で採れる焼き米は、その時に倉庫に積まれてあった米が蒸し焼きになったものであると、土地の人は語り伝えているのです。

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