![]() |
![]()
![]() |
|
八方口の将軍道への入口
|
![]() |
上の写真は、高根沢町と、さくら市の境界になる「八方口」というところです。喜連川丘陵を越える「将軍道」の入口になっている場所です。現在ここには、簡易舗装された道があり、普通自動車が、やっと一台通れるだけの狭い道です。この道は地元の農作業車などが、時より利用するだけのようです。
この道の傍らに左の写真の馬頭観音石塔が立っていて、江戸時代後期頃のものではないかと思われます。この将軍道は江戸時代にも人馬の往来があったのでしょうか。ご案内する「上川井」までの将軍道には石塔や石仏類は、この馬頭観音石塔しか見られませんでした。 |
| 将軍道は源義家が前九年・後三年の役平定のため、陸奥へ向かうさいに通った道と伝えられていました。
将軍道を上がって行くと直に切通の中を通りますが、右の写真はその切通に入る手前の辺りを撮影したものです。この辺りでは簡易舗装やコンクリート壁の道になっていますが、何となく古道の雰囲気は感じられるところです。写真の右手のコンクリート壁などは、かっての古道の土手であったかも知れない、などと想像しながら歩いてみると、普通の道が特別な道に感じられてくるものです。普段、何気なく通り過ぎていた道も、何かないかと気配りすると新たな発見があったりしますが、古道探索とはそのような気配りが重要なのです。だからといって、お金が落ちているかどうかは私の知るところではありません。 |
![]() |
![]() |
左の写真は切通に入る手前から振り向いて撮影したものです。この八方口から南側の推定東山道は、鬼怒川縁まで平坦地を真っ直ぐに通っていたと想定されています。その想定ラインの途中の高根沢町と、さくら市の境界になる農道で、古代道路と思われる遺構が発掘されています。発見された道路遺構は「南原遺跡」と呼ばれ、道の両側に側溝があり、その側溝間の幅は約6メートルであったそうです。これからご案内する将軍道の直線の延長上南西方向に南原遺跡は載っていて、更にその直線を南西へ延ばすと、現在の鬼怒川を国道4号線と東北本線が渡っている場所に出るのです。 |
![]() |
古代東山道が鬼怒川を渡る渡河地点が、現在でも国道4号線やJR東北本線が渡っている場所であって、この鬼怒川の渡河地点は古代から現在まで、東北方面への幹線路として踏襲されていると研究者は指摘しています。
左の写真は八方口から将軍道に入り、最初の切通のところを撮影したものです。林の中の薄暗い切通で途中か右方向にカーブしています。 |
| 右の写真は切通の坂を上り、振り向いて撮影したものです。ここの切通壁は急傾斜で、尾根は深くえぐられています。人工的に造られた切通だとは思いますが、古さはあまり感じられません。長い年月の間に道として使用され続けて、今日では深くえぐられた切通となったとも想像できます。いずれにしても古代東山道の往時の姿の切通道ではないと思われます。
数々の古道を実際に歩き、古道が通っていた現在の地表面を観察していると、自ずと古道であるのか、そうでないのかと、多少の判断は付くようになっていくものです。その古道探しのゲームは、はっきりとした答えの出るものではありませんが、研究者でなくても歴史ロマンの魅力を充分に味わうことができるのです。 |
![]() |
![]() |
切通を上って、抜け出たところには左の写真の大きな桜の木が一本立っていました。そこには説明版があり、この桜の木は「将軍桜」と呼ぶそうです。説明版には、この前の道は奈良・平安時代の古代東山道であり、都と東北地方を結ぶ官道で、急変があると早馬が駆け抜けていったと書かれています。近くに「新田(にいた)駅」もあったことや、ここからは九州へ行く防人たちが別れを惜しみながら旅だって行ったことなども書かれています。またこの道は「将軍道」と伝えられ、この桜は将軍道の名残をとどめるものであり、ずっと昔に山桜の大木があって、それから何代目からの桜に植え替えられたということです。 |
![]() |
|
少し進んで将軍桜を振り返る
|
![]() |
将軍桜の前から簡易舗装の道は右に折れて進んでいます。その道は将軍道ではありません。将軍道は桜の前から真っ直ぐ進む未舗装の細道になります。この細道は、あまり歩く人がいないようです。夏から秋には長く伸びた雑草に一部覆われていました。こんなに素晴らしい古道であるのに、この道を歩く人は一年間に何人位いるのでしょうか。もっと現代人は歴史古道を身近に親しんでみたらいかがなものかと思います。奈良時代の国道が左の写真の道なのですが、どうでしょうか想像がつきますか。この道を蝦夷討伐の大軍が駆け抜けて行った……。道を歩きながらタイムスリップしてみると普段と違った視線で物事の判断ができたりするものなどですが。 |
![]() |
|
古道の雰囲気が伝わる堀割状の道
|
![]() |
|
上の写真の付近から来た方向へ振り返る
|
| 将軍桜から最初の丘陵を乗り越える付近は、上の2つの写真のような堀割状の地形の中を道が通っています。皿底のよに窪んだ堀割状の道は古道の典型的な景観です。細道の西側の林の中には堀割壁が土塁状に高まっているのが確認できます。このような景観のところには、地中に道路遺構が残っている可能性が高いようです。一方で堀割道の東側は右写真のように畑状の平地となっていて、道から約70〜80メートルほど離れたところには写真の塚のようなものが見られます。 | ![]() |
![]() |
この塚のような木が茂る中には神社の祠があります。神社名は取材時間がなく、確認できていません。この神社のある塚のようなものは、或いは古道と、何らかの関連があるものなのかも知れません。左の写真は塚のようなものがある高台から東山道が最初に発掘された付近を眺めたものです。写真の中央の舗装道路は「八溝グリーンライン」といい、那珂川町まで続いている道路です。東山道はこの道路の建設にともなう発掘で発見されました。 |
| そうか、将軍道に東山道。 「あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」巻三-328 有名な万葉歌でご存じの方もおられることでしょう。この道は奈良の平城京まで続いていたんだな。ふと、感慨深いものが込みあげてくるのでした。平城宮跡では、現在、大極殿正殿の復元建設が行われているようです。 右の写真は丘陵頂部から北へ下る堀割道です。この付近も堀割道ではありますが、幅は狭く、3メートル有るか無いかのところです。この堀割道を抜けると八溝クリーンラインの舗装道路に出ます。今回ご案内する将軍道は、最初の八方口から上川井までの区間で丘陵を4つ越えて行きますが、ここで最初の丘陵を越えたことになります。 |
![]() |
|
古代の道について 那須とその周辺の史跡を尋ねる
|
|
|
馬屋久保遺跡を歩く 馬屋久保遺跡の地図 |
|