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再検討 埼玉県の嵐山町は県のほぼ中央に位置しています。嵐山町には鎌倉街道上道が縦断していたことから、中世の史跡や遺跡が多いところなのです。菅谷館跡は嵐山町の史跡の中心的な存在で、館跡地内には「埼玉県立嵐山史跡の博物館」が建てられています。『吾妻鏡』によれば元久2年(1205)、鎌倉に異変がありの知らせを受けた畠山重忠は菅谷の館を出発し、二俣川で北条軍に討たれています。この重忠の出発した菅谷の館は、ここ嵐山町の菅谷館跡とこれまで一般的に考えられてきています。 |
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畠山重忠が菅谷館から鎌倉へ向かった道(鎌倉街道上道)は、嵐山町のどこを通っていたのでしょうか。これまでの研究成果から、笛吹峠―大蔵館跡東側―学校橋付近で都幾川を渡河―菅谷中学校の東から北側へ(本宿)―菅谷神社の北側―町内の志賀方面、というのが最も有力な推定ルートと考えられています。一方で菅谷館跡の西側に鎌倉街道跡と伝承される堀割状遺構が存在し、そこには「伊昔鎌倉街道菅谷」と書かれている石碑が建てられています。左の写真及び上の写真は、菅谷館跡西側の堀割状遺構の北側を通る舗装道路を撮影したものです。 |
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山王遺跡(さんのういせき) 左の写真は現在でも地表面に見られる堀割状遺構の北側端部で、遺構はここで舗装道路に接して終わっています。 |
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左の写真は菅谷館跡西端にある堀割状遺構を、上の写真のところから堀割内に入り15メートルほど進んで振り向いて撮影したものです。両側に土手が築かれている皿状の窪地は、まさに鎌倉街道跡の典型的な景観です。この堀割状遺構は、以前には鎌倉街道の原形の姿をとどめる、もっとも代表的な例と言われていたことがありました。それをくつがえしたのは、昭和57年に実施された「歴史の道調査」にともなうトレンチ調査の結果でした。道跡と思われていたこの堀割状遺構が、菅谷館(城)に関連した堀の遺構の可能性が高いという判断が下されたのでした。 |
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左の写真は堀割状遺構を横から眺めたもので、西側の堀割壁がよくわかります。 歴史の道調査で行われた、菅谷館跡西側の堀割状遺構トレンチ調査の報告内容を以下にまとめてみました。 トレンチ調査の位置 |
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第1トレンチ(北側) 堀割状遺構を横断する形で幅2メートル(西側4メートルは幅約0.5メートル)、長さ10.7メートルを設定。堀割状遺構は台地の構成土であるハードローム層と、さらにその下の灰黄色粘土層まで堀下げて形成されており、深さは遺構の中程で現地表より約1.7メートルであった。土層は11層で、1〜4層までは自然堆積。5〜8層はローム混じりの黒褐色土で人為的に埋め戻された状況を呈していた。8層以下は自然堆積が主体だが、10・11層には掘削で補修した跡がみられる。堀の形状は底の部分で舟底状を呈し、左右に急傾斜で立ち上がる。中程はゆるやかな傾斜を呈するテラスを形成。そのテラスには不規則なピットが幾つか検出されている。テラスの左右は再び急傾斜となる。立ち上がり上部は地表面より約0.5メートルの盛土がなされ、掘削のときに盛られたものと思われる。 |
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第2トレンチ(南側) 堀割状遺構を横断する形で長さ8.5メートル、幅1.5メートル(西側1メートルは幅約0.5メートル)を設定。堀割状遺構は台地の構成土であるハードローム層の下位まで掘り下げて形成されており、深さは遺構の中程で現地表より約1.2メートルである。土層は11層で、いずれの層も基本的には自然堆積土である。壁際の層は壁崩落土で構成されている。中央部は黒色土とローム土などが混入し、壁崩落土と腐植土がレンズ状に自然堆積したものと考えられる。堀の形状は第1トレンチに比べ不定形であり、堀底は南側に約0.5メートルの落差で低くなっていた。堀の最深部は東よりに位地し東の立ち上がりは急で、西はゆるやかに立ち上がる。壁の中程には第1トレンチほど明瞭ではないがテラスが形成されている。壁の上部は旧地表面より約0.8メートルの盛土がなされている。 |
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調査結果 2カ所のトレンチの結果から、本遺構は道路遺構と考えるには少々無理があるように思われる。毛呂山町市場や小川町伊勢根の調査結果とは明らかに異なり(路面としての平坦面の確認や側溝と思われる両脇の溝跡等の検出がない)が指摘でき、むしろ城館跡に認められる堀の形態を呈していた。道路として使用された可能性を留保したとしても、それは、この堀が機能を停止した跡か、ある程度、堀が埋没した段階でのことであろう。堀の形成年代は、堀が箱薬研堀であると考えられ、中世段階以降であろう。第1トレンチの出土遺物として16世紀前半代の美濃窯の擂鉢の口縁部破片が出土していて、堀の形成は16世紀以前で、16世紀以降にその機能を停止したものと推測できる。このことから道路としての機能があったとするならば、16世紀以降で、時期的に鎌倉街道として使用されたとは考え難い。 |
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